陸羽 ~茶経の著者の世界観と交友関係~

陸羽 ~多方面に精通した才能と矛盾の心理~

茶経という書物は唐の時代765年に初稿が脱稿されてから、多くの人の中国茶の手本となってきました。その内容はお茶の製造や器具の説明をはじめ、水や植物学・文化・思想・哲学と広範にわたります。

今日の中国茶に多大な影響を与えた茶経の著者、陸羽という人はどんな人だったんだろうか?
2003年、中国を訪れる前に中国の茶の歴史や茶の起源を調べていたときから茶経を記した陸羽の生涯が気になりはじめ、いろいろと文献を調べました。
世界最古の茶の専門書を記した人物なんだから、生涯茶の研究に没頭していた学者タイプなのだろうか?と思っていましたが・・・・彼の生涯は生誕の事実から驚きがありました。


陸羽は唐の時代、722年に復州ケイ陵で誕生しました。
その時代の唐は律令制度を確立させその政権の磐石ぶりを国内外に知らしめました。唐の中央集権体制は後の中国の各王朝はじめ、日本を含めた諸外国に大きな影響を与えました。
そんな時代背景のなか陸羽は現在の湖北省天門県で生まれたのですが、その人生のスタートは不幸から始まります。
陸羽は捨て子で両親の名すらわかりませんでした。幼少時代は唐の有名な僧侶、智積(チシャク)に育てられ、彼の指導を受け仏教を学び始めたそうです。
しかし、毎日の平凡な寺での生活に陸羽少年は退屈だったのでしょうか?たまたま、寺に来た客から儒教のことを聞いて興味を持ち始めました。儒教を学びたいと智積に頼んだのですが当然猛反対をされ、今まで以上に厳しい労働を課せられるようになりました。
とうとう、本気で寺での生活に嫌気がさした陸羽は新天地を求めて寺から飛び出しました。まだ11歳でした。
その後は、儒教を学んだり、芝居小屋で芝居に興味を持ちいくつかの脚本まで仕上げたりと、なかなか多彩な人物であったようです。
儒教を5年ほど修行してから陸羽は再び村へもどります。まだ、本格的に茶とは接していないようです。


陸羽は文人、茶人、僧侶、官僚、儒家、道士といった賢人たちとの交流があったようです。
それは、自身が茶の専門家だったことはもちろん、書道、詩、植物学、地理学など多方面にわたり活躍していたからこそ多くの賢人と交流ができたのでしょう。彼は友情をとても大切にしていました。その交遊もあって文壇でも活躍し社会的地位も得ていました。

そんな陸羽に2度も任官の依頼がありましたが彼は2度とも拒否しました。
仕官することなく生涯を在野の人として過ごしました。それは彼の思想や、官に対する不信感がそうさせたのかもしれません。
その不信感の原因は755年に勃発した安史の乱により動乱の時代が到来したことにあると思われます。民衆は貧困の生活を強いられ、その光景をみた青年陸羽は朝廷に失望したのかもしれません。官僚たちとの交流がありながらも、政治・朝廷に対する不信感をぬぐい切れない。陸羽という人の矛盾した心理の一面がうかがえました。

朝廷へ反感があり仕官しない。が、それでも世間との交流を完全に断ち切ることもできずに官僚や賢人たちと語り合う・・・・
彼の人柄を慕い多くの智者が彼のもとを幾度となく訪ねました。
また、陸羽も彼らから違う考え方や知識を吸収しました。彼の茶の文化はこういった人との繋がりから確立されたものでしょう。
友情を大切にしてきた陸羽だからこそ茶の知識だけではなく、文化・思想まで取り入れた茶経を完成させられたのだと思います。


智積禅師(ちしゃくぜんじ) ~陸羽の名付け親・育ての親~

陸羽の出生の年代は定かではありません。中国の通説では733年ということになっています。陸羽の生い立ちは恵まれた状況ではありませんでした。
陸羽の自伝「陸文学自伝」には・・・・

始め三歳、惸露、竟陵の太師積公の禅に育てられ・・・・

と書いてあります。陸羽は両親のことを書いておらず、智積禅師のもとで育てられたと記述しています。
竟陵は現在の湖北省天文県のあたりです。このあたり一体は遊水地帯のようで湖沼が亜いたるところにあったそうです。
そこで育てられたのですが、陸羽自身は自分は「捨て子ではない」ことを自伝で主張しています。「惸露」とは両親ともに死んでしまい孤児になったということのようです。
いずれにしても陸羽はその出生は不明のまま智積禅師に拾われてそこで育てられました。

智積禅師は竟陵の龍蓋寺(前漢時代に建てられました)の高名な僧侶でした。彼に関する文献は多く残っていないようで彼の人となりは詳しく記されていませんが、学識が深く、高尚な人物だったようで多くの弟子から慕われ、「智公」とも呼ばれていたようです。
陸羽の姓は智積禅師の姓を与えられたようです。この当時3歳以下の捨て子は育てた人の姓を名乗ることが許されていたからです。

まだ自分自身の身を守ることの出来ない幼子の時代を高名な僧侶であった智積禅師のもので送ったのでした。
彼はそこで仏教に触れることになり茶経もに影響を与えていきます。


崔国輔(さいこくほ) ~陸羽の良き理解者~

752年、陸羽が19歳くらいの頃。竟陵に崔国輔は竟陵司馬として赴任してきます。
実際は左遷されてきたとありその理由は、中央での謀反の疑いがあった崔国輔の親戚が自害を命じられたためそれに連座する形で、礼部員外郎という職を解かれ竟陵に左遷されたとあります。

崔国輔は呉郡の出身で、開元進士、集賢直学士でした。そしてこの当時の有名な詩人でもありました。
詩の知名度は私にはよく分かりませんが最高級レベルだったそうです。特に五言詩を得意とし、杜甫とも仲が良かったのだそうです。
その崔国輔は左遷先の竟稜で陸羽の才能を伝え聞き、彼を招きます。この出会いがきっかけとなり二人は交遊を深め、その友情は大変厚くなりました。

彼らは一日中勉強したり、茶を楽しんだり、水を評価しあったりしていました。そして陸羽は、中央の生活の実態や、官僚、政治のシステムを聞き多くのことを吸収していきます。また詩についても手ほどきしてもらったそうです。

陸羽と崔国輔の深い交遊は三年間ほどでしたが、陸羽はその間に社会全体を見渡す力が鋭くなり、政治への関心も大きくなったようです。
陸羽はその後竟稜を旅立つのですがこの時に崔国輔は年下の親友に「今別離」というひとつの詩を送っています。
それは親友が旅立つことを喜んで見送ってやりたいという気持ちと、自分はあまり長く生きられないであろうから早く戻ってきて欲しいという気持ちが込められていたそうです。

今別離 崔国輔

送別未納旋 相望連水口
船行欲映洲 幾度急揺手


(今回分かれたら、あなたはいつ帰ってくるか分からないだろう。水口でさよならをいいます。船に乗ると、途中に洲があります。遠いところに行かれますが、早く帰ってきてください。私は何度も手を振ります。)

3年間の交流で崔国輔は陸羽のその人となりをよく理解し、今後のあり方などをいろいろと教えたそうです。でも、まだまだ教えたいことがあるのだが、彼の旅たちを喜んであげなければいけない。それが送る側にとって今生の別れとなったとしても。という崔国輔の気持ちが詩からうかがえます。
この翌年陸羽は崔国輔に会いに竟稜に戻ってきますがそのときに崔国輔はこの世を去っていました。そしてその死因は不明のままです。


皎然(こうねん) ~共通点の多かった友人~

皎然は本名は謝、名は昼。昼上人ともいわれた人物です。南宋の有名な山水詩人謝霊運の子孫で、本人も唐の有名な詩僧として高名な人物でした。彼の詩は先祖謝霊運と同じように山水の自然の美しさを表す詩風で別れの詩なども多く現存していてその数は500首にも及ぶといわれています。

陸羽よりも10歳ほど年上と推定されていて790年の後半に亡くなったといわれています。

陸羽は自分の自伝にも記述していますが、皎然はもっとも親密な友人でした。

緇素忘年之交

とは陸羽の自伝に記されていた言葉ですが緇は黒衣のことで僧侶をあらわしています。
素は白衣のことで民間人を、そして、忘年之交とは年齢や世代を超えた深い付き合いを表す言葉でつまり、この言葉は詩僧皎然とどこにも帰属していない自分つまり陸羽は、世代を超えた深い付き合いをしたというように解釈できます。
彼らは詩を作ったり、茶を飲んだり、仏教を研究したりしていたそうです。彼らには共通する世界観がいくつかありそれで、彼らの仲は深いものであったのだと思います。

二人の共通点は人生観や、思想、茶に関して重なるものが多いようです。これは尊敬し合っていた二人が互いの美点を吸収したからなのではとも考えられます。
人生観において陸羽は中庸の士でした。これは無位無官を貫き通し世俗ともやや離れた隠居が理想であるという陸羽の考えです。皎然も同様に隠居を主張しています。思想は社会に対する鋭い見解と官僚には仕官しないという共通に持っていたようです。また、質素倹約を是とした精神も共通しています。
茶に対しての考え方は陸羽の茶経に皎然の意見や思想が十分に反映されているようです。皎然は特に精神、芸術的志向が強く、茶に関しては植物学的、摘採の方法、飲み方などに独自の理論を持っていたようです。
付き合いの深かった陸羽の記した茶経に皎然の考えが影響を及ぼしているのは当然のことでしょう。
皎然は陸羽との厚い信頼と深い友情をあらわした詩を数多く残しています。


顔真卿(がんしんけい) ~官人・武人・文人、才覚あふれた義士~

真卿は「顔氏家訓」の著者である顔之推(がんしすい)の子孫で、字を清臣といいます。
彼は官人であり、優れた武将であり、また「顔体」という書法の創始者でした。「顔体」は厳粛な楷書体、力強い書法で今日もなお中国で継承されている書法のひとつです。

彼は武将としても有能な人物でした。その功績は、安史の乱で際立ちます。安禄山(あんろくさん)が皇帝に反旗を翻して、河北から洛陽に進軍します。友軍が次々と撃破または降伏していくなか、当時平原の太守であった顔真卿は安禄山の侵攻を食い止めるべく立ち向かいます。彼はこの戦いにより義士としての名を高めます。

しかし、顔真卿は義士であるがゆえに融通が利かないところがありました。朝廷や高官に対しても正義を貫き生涯自説を曲げることはありませんでした。そのために中央の高官からは扱いにくい人物として忌避されてしまいます。
その性格が災いして左遷の連続だったそうです。中央に戻ったと思いきやまた地方への異動・・・・そんなことの繰り返しでした。

自説を曲げない高潔な武将が浙西節度使に任命され、弁州刺史を兼任していた時に、陸羽の来訪がありました。
彼らはお互いの中に自分と似ている点を見つけたのでしょう。すぐに親密になります。
陸羽と顔真卿は質素倹約を美徳とし、詩を詠み、茶を愛していたという共通点があったようです。


彼ら以外にも陸羽と深い親交のあった人物は多くいますが、そのほとんどが文人や高官でした。陸羽は多くの文人たちの考えに共感しそれを自分の世界に取り込みました。そしてその精神は茶経にも表れています。

799年に、陸羽は蘇州から湖州に戻り晩年を送ります。そして804年に72歳で病死したといわれていますが事実は不明のままです。

陸羽の死を悼んだ詩を権徳輿が詠んでいます。その内容は陸羽が高尚かつ潔白、己の志を変えることない人物であったということを賛嘆しています。
生涯在野を貫いた人物が書記した茶の書物は「茶経」の一冊のみでしたが、この書物こそが後の製茶・喫茶の手本となるのです。
そして世界最古の茶の教本を記した陸羽は「茶聖」と呼ばれるようになりました。

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